第3分科会 文学・言語
司会:桂燕玉(東京大学大学院博士後期課程)
◆第一報告◆
「〈国文学〉への仲間入り、そして〈世界文学〉へ:尹東柱詩の校正と日本語訳について」
*報告者:朴銀姫(佛教大学兼任講師)
[要旨]
一九三六年神社参拝を拒否し、崇実中学校を自退して平壌から龍井に戻った尹東柱は、一九三八年京城に行くまで、延吉で発行された『カトリック少年』誌に童謡「ひよこ」(「병아리」)、「ほうき」(「비ㅅ자루」)、「しょうべんたれ地図」(「오줌싸개 지도」)、「なにを食べて暮らす」(「무얼 먹구 사나」)、「うそつき」(「거즛뿌리」)など童謡、童詩を尹童柱、尹童舟の筆名で発表した。延禧専門学校に在学していた四年の間、尹東柱は『朝鮮日報』に散文「月を射る」(「달을 쏘다」)と詩「遺言」、「弟の印象が」(「아우의 印象畵」)を、『少年』に童謡「ごだま」(「산울림」)を発表した。このように彼が生前龍井と京城で発表した作品は数少ない。延禧専門学校の卒業を記念して、彼は一度詩集出版を図ったが、民族語に対する弾圧が強化されていた当時の社会的状況と、彼の貧しい経済的状況によって実現することができないまま、日本に渡り、福岡刑務所で獄死した。
一九四八年、詩人不在のソウルで初めて詩集が出版(正音社版 三一篇収録)されることになった。詩人の友人や後輩、遺族たちが命懸けで守ってきた、詩人の自筆原稿がその底本となっていたことは言うまでもない。以後一九五五年には九三篇、一九七六年には一一六篇と作品が追加され、一九八三年には『尹東柱全詩集』という形で、それまでに眠っていた遺稿が公になった。一方、日本では一九五五年から少しずつ紹介されてはいたが、単行本の詩集が出るようになったのは一九八〇年代に入ってからであった。いまや日本の翻訳家たちによって数多くの翻訳詩集が出ている。韓国の国民的な詩人である尹東柱を偲ぶ会や、尹東柱詩の読み会など、尹東柱を囲むイベントがいま日本で活発に行われている。
今回の研究発表では、一九四八年から現在まで韓国で出版された詩集に見られる、尹東柱遺稿の校正の例と、日本語訳の例を挙げて、尹東柱の詩が韓国の「国文学」に仲間入りをする条件は何であったのか、そして国境を越えて「世界文学」となったというのはどういうことなのか、という問題について考察する。
*討論者:大村益夫(早稲田大学名誉教授)
◆第二報告◆
「姜敬愛, 許蓮順の小説における‘家’が持つ意味」
*報告者:厳貞子(ECC外国語学院講師)
[要旨]
姜敬愛(1906~1944)と許蓮順(1954~)はそれぞれ1930年代の朝鮮文壇と20世紀末~21世紀初頭の中国朝鮮族文壇で活動していた朝鮮人作家である。姜敬愛と許蓮順は違う時代、違う社会、違う文壇の作家だが、二人とも家庭という表像を通じて社会問題を描いたという共通点を持っている。それに、その家庭は全て壊れていく家庭である。姜敬愛の『母と娘』、『人間問題』、『塩』、そして許蓮順の『風の花』、『だれか蝶の家を見たことがあるのか』などが挙げられる。
姜敬愛と許蓮順のもう一つの共通点は間島(延辺)での生活経験を基に、破たんしていく家庭を描きながらその原因を当時の時代から探ったことである。彼女達にとって家庭はその時代の縮図である。だが、この共通点は二人の相違点とも言える。姜敬愛は1931年6月からの十年間、ほとんどの時間を間島で過ごした。1930年-1932年の間、「日帝」は四回‘間島共産党事件’を起こすと同時に、大討伐により多くの人を逮捕した。(李相瓊、「間島体験の精神史」)姜敬愛はこのような植民地制度が作りあげた時代こそ朝鮮人家庭が破たんする根本的な原因だと見ている。一方、許蓮順は青少年時代を文化大革命の中で過ごした。残酷な政治闘争の中で、多くの朝鮮族家庭の不幸を目の当たりにした彼女の文学の根底には、その時代が残した精神的な傷痕が投影されている。また韓国に留学したことのある許蓮順は、自分の体験を基に、コリアン シンドロ-ムの中で家族がばらばらになることによって民族全体に広がっていく精神的な傷に焦点を合わせている。
では、何故二人が語る家庭はこのように時代的、政治的なイメ-ジが強いのか。姜敬愛は平壌スウンイ女子学校に通っていた頃、読書会に参加し、1923年、三年生のとき、同盟休学を起こして、退学処分となった。その後1920年代後半から三度も間島の龍井へ渡った。当時、満州朝鮮人社会の運動圏の主導権は民族主義から社会主義に変わる時期だったため、姜敬愛もそのような社会の雰囲気に影響を受けた。また間島社会主義運動の温床として知られてある東興中学校の教導だった夫のチャン・ハイルの影響もある。そのため姜敬愛は朝鮮近代作家の誰よりも政治的で、社会的な作家になった。(李相瓊、「姜敬愛の時代と文学」)一方、許蓮順は在中国朝鮮人3世として中国の延辺(間島)で生まれ育った。小学校から大学まで社会主義教育を受けた彼女が政治意識、社会意識が強い作品を書くようになるのは当然なことである。でも許蓮順は姜敬愛のように社会制度自体を批判することはできながった。作家自身も過激な政治意識を持っていないため、朝鮮族が受けている精神的な傷を社会問題としで出しているだけだ。それによって朝鮮族社会の危機感を表した。
本稿では二人の人生、また彼女達が生きた時代と作品との関係を分析し、家庭が社会の基本的な単位である社会制度の下で、二人が家庭をどのように描いているのかという問題を含め、二人の小説における‘家’が持つ意味を探ることによって、より深く二人の作家を研究することを試みる。
*討論者:布袋敏博(早稲田大学教授)
◆第三報告◆
「文化摩擦について:中国・日本・韓国の言語による混乱を中心に」
*報告者:金今福(龍谷大学文学研究科研究生)
[要旨]
【問題提起】「文化」ということに関して、各分野の学者たちはさまざまな定義をしている。発表者は、文化とは人間によって創り出された全てのものが文化であるというボルノウ的観点から分析しようと思っている。そうすると言葉、言語も人間によってつくられ変化をしているので当然文化の一部に属しているといえるだろう。歴史の発展の中で、世界各国、地域の人々たちはそれぞれの個性ある文化、言語を持って暮らしてきた。特に同じアジア近隣国である中国・日本・韓国は長い歴史の中で影響を与えている。中国・日本・韓国、それぞれ国における現代の文化摩擦の中で、特に言語的な面と関わりのあるところに着目しようと思っている。
【研究方法】
1まず文化摩擦に対して、言語の要因からくるソフト的な摩擦に限られていることを定義する。、2簡単に、先行研究としてボルノウ(Otto Friedrich Bollnow 1903~1991)の文化論の中の言語を基本に、文化と言語の意味理解と異文化理解を結びつける。言語学者ソシュール(Ferdinand de Saussure 1857~1913)の言葉を借りて言語に含まれた無限性を表す。間違った言語表現が異文化の摩擦を引き起こす可能性があることを示唆する。3現在の状況として、中国・日本・韓国に滞在する外国人(主に中国・日本・・韓国人)の数などを取り上げる。国際化が進んでいる時代に、滞在する外国人の数とともに摩擦なども不可避なことであろう。4具体例:日本と中国¯福田康夫元総理が中国を訪問した時、通訳の言葉から総理は不快感を感じたという例を取り上げる。発表者が言語教授活動の実践の中での例からも混乱をもたらした場面を分析する。韓国:「様」先生様、社長様「ご馳走様でした」などの例から朝鮮語独特の文化と言語学習の時の注意点。日本のメディアの放送においての言葉についての分析。「チベット人」「チベット民族」からの摩擦現象分析。
【発表者の見解】留学生増加、貿易交流の発展とともに、外国語が話せる人は多くなっている。(中国語、日本語、朝鮮語・ハングル)しかし、外国語が話せるだけでは円滑なコミュニケーションができるといえない。言語はその言語が生まれた文化と切り離せない密接な関係にあるので、場合によっては一言語を他言語に訳すにあったって必ずしも一対一に訳せるとは限らない。その時は、背景に結び付けた遠回しの訳に頼るしかない。背景の中心にあるのがもちろん文化がであるだろう。中国・日本・韓国の学校教育段階で異文化理解学習を行っている点で3カ国は共通している。異なった国の人同士がリアルタイムで同時に行う遠隔教育などの異文化理解学習段階で深い異文化理解が得られたら少しは言語による文化摩擦の解消にも繋がるのではないかと思う。
【問題点】言語の面だけにおいての正しい理解から直接文化摩擦の解消という大きい結果に繋がるかという恐れがある。
*討論者:白愛仙(大東文化大学非常勤講師)
[要旨]
報告者は、言語という文化摩擦に注目して、中国・日本・韓国における留学生の状況、コトバによる文化摩擦、中国語・日本語・韓国語における文化の背景、及びコトバの仕組みを分析し、「異なった国の人同士がリアルタイムで同時に行う遠隔教育などの異文化理解学習段階で深い異文化理解が得られたら少しは言語による文化摩擦の解消にも繋がるのではないか」と述べていた。なお、学習レベルによる訳文の間違い、コトバの仕組みによる文化の違いが、文化の摩擦といえるかは、さらなる検討が期待される。
国際社会の発展と共に、言語による文化摩擦は、われわれが直面している現実の問題として、その解決は理解と信頼、言語(コミュニケーション)能力を高めることであり、互いに学び、教養を高め、友好を促進し、繋がりを広げ、協力を進めることではないかと考える。すなわち、人間とその文化に関わる現代社会の問題は、自然科学の学問によっては解決できず、また政治的・経済的側面からのみこれを見ても根本的解決には至らないと考える。それに対処するには、文化に対する浅薄な理解にとどまらず、言語を、その言語を使用する人間の思考の深みまで降りて理解し、互いの価値観を許容し、心にある「国境」を取り除き、国境を越えて、コミュニケーションを深め、信頼を作ることが世界の発展と平和の実現に繋がるのではないかと考える。